つないだ命

生きるために、どの時代も闘わなければならなかった。元残留孤児の私の人生をつづります。1984年に帰国し、ふるさとの高知県で暮らしています。

(47)商業簿記資格に合格する

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 1985年4月、私を含む11名の帰国者は、高知県職業訓練学校へ入学した。私が学ぶ科目は商業簿記と事務。言葉が十分でないのでとても不安だった。日本の社会では、どんな仕事にも資格免許が必要と聞いたことがあった。社会人として働くには学校で勉強して資格を取ることがとても大事なことで、資格は生活の基本だとあらためて認識した。

 訓練学校の担任はとても優しい先生だった。また多くの生徒と友だちになった。日本語はもちろんのこと、生活習慣なども教えてくれた。学校生活が楽しかったので、難しい授業も頑張って理解するようになり、努力を続けることができた。

 8月に学校は夏休みに入った。私はこの期間を利用して、中国に残していた夫と次男を迎えに行くことにした。この時には、私の戸籍が既に復活していたので、日本のパスポートで中国へ行くことができた。とても心強かった。中国にいる2人の出国書類が整ったらすぐに日本へ戻る計画だったが、引き揚げ者政策では、私が日本を離れて3か月経過しないと家族の日本への入国手続き申請ができない、との決まりがあった。訓練学校の休みはわずか1か月で、9月には授業が始まる。このままでは授業に遅れると焦った私は、何度も厚生省に事情を説明し、手続きを早めるよう陳情書を書いて送った。しかし結局、私が学校に戻ったのは授業始まってから2か月が過ぎてからだった。

あまりにも急な試験

 

 「よかった! また会えた! もう帰って来ないと思った!」

 クラスメートたちは私に声をかけてくれた。皆さんは、試験準備に入っていた。私も復習を始めたが、試験に向けた勉強時間はあまりにも短かった。

学校に戻ってたった1週間で商業簿記3級の試験日がやってきた。当日は快晴。朝早く起きて国家試験に向かう心の準備をして、9時に自転車で試験会場の高知商業高校へ。試験開始15分前に試験会場の教室に入った。

 2か月間授業を受けず、復習時間も短かかったため、自信はほとんどなかったが、今回のチャンスを逃すと次がないと思っていた。私は胸がドキドキして落ち着かず、問題用紙を受け取る手は震えていた。大きく深呼吸し試験問題を確認すると、落ち着きを取り戻すことができた。限られた時間で復習した内容が出題されていたからだ。

 最後の問題は明細表の仕分けだった。配点が40点と大きく、満点を取れば合格できる確率は高いと考えた私は、この問題に集中して力を入れた。試験後に解答を確認すると、合格の自信が湧いてきた。そして1週間後に先生から合格の発表があった。

 「石川さんは素晴らしい! よく頑張りましたね」

 国家試験に合格することは私の人生で初めのことで、とても嬉しかった。同時に、もしも日本で青春時代を送っていたら、もっと色んなことにチャレンジできただろうと、運命の悪戯を嘆いた。悔しいけれど、「これからだ」と思うようにした。その姿を子どもたちに見せたかった。

 そして、翌年の2月に私は誇らしい成績で訓練学校を卒業した。

(46)思い出の風景

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 私が生まれたのは、南国市香美郡田村であった。

 帰国してから、私は何度も足を運んだ。よく遊び場にしていたお寺は、だいぶ古くなっていた。私のことを可愛がってくれた近くのお婆さんや、綺麗なお姉さんは、もういなくなっていた。お婆さんはだいぶ昔に亡くなり、お姉さんは遠くへ嫁いでいた。

 私の家の近くにあった大きな川は、セメントで囲まれて小さくなっていた。家の前にあったお地蔵様はそのままだった。小さい神様だったが、とても強い神様と聞いて育ったので、私はそこを通る度に両手を合わせ拝むことにしていた。お地蔵様にも帰って来たことを告げ、これからの幸せを願った。

 私が3年生まで勉強していた日章小学校へは、恵姉さんが連れていってくれた。懐かしい校舎はそのまま。ただ私たちが毎朝行っていた天皇朝礼に使う朝礼堂が無くなり、通学路の途中にあった文具屋さんもなくなっていた。あの文具屋さんは私にとって、とても懐かしく、店のおばさんはとても優しい人だった。私はいつも下校の途中にお店に寄り、綺麗な金魚の形のゴム製のおもちゃを買った。口に入れて、舌先でつぶすと「ぎゅっ」と音がする。そうやって遊びながら帰宅していた。

 思い出が、とても幸せに感じさせてくれた。数々の思い出を作ったこの風景を私は生涯忘れることができない。まさに故郷であった。

(45)着物で写真を撮りたい

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 帰国して間もない頃、私が在籍していた日章小学校の同級生から連絡があった。同級生の誰かが私が帰国したことを知り、私と長男のために歓迎会を開いてくれた。知らせを受けた時、私は小学校低学年のころを思い出した。

 日章小学校に通ったのは約2年半。3年生の下半期に優しい先生、親しい同級生と別れ、満州へ渡った。当時、私たち一般の国民は、誰一人として国の情勢や戦時の状況などを分かっていなかった。

 同級生たちは、私が親の仕事の関係で国を離れ、遠いところへ行ったと思っていた。私のほかには誰も満州へ行った人はいなかったようだ。同級生たちは敗戦の時、大変な苦労をしており、皆がそのことを話してくれた。一方の私は、同級生とは別の場所で成人し、社会人になり、家庭を築いた。

 歳をとって故郷で同級生と再び会えたことは本当に嬉しかった。悩みがなく、天真爛漫な子ども時代に戻ったように、懐かしさと温かさを感じた。

 同級生には、言いたいことも聞きたいことも山ほどあった。ただ私は長年の外国生活で日本語を失っていた。残念で、とても悲しかった。同級生の皆さんはとても優しかった。言葉の通じない私と会話する代わりに、一緒に沢山の記念写真を撮ってくれた。その後、小学校1、2年の時に撮った古い写真が入った同窓会のアルバムをプレゼントしてくれた。

 私はアルバムを繰り返し見た。そして、同級生の一人ひとりの写真と今とを比べてみた。皆は日本の社会で成長し、大人になった。同級生の美しい着物姿が羨ましかった。いつか自分も着物姿で写真を撮りたいと思った。

 私が帰って来たことは、岡山に住む幼馴染のセツ子にも伝わった。彼女はわざわざ私に会いに来てくれた。セツ子は高校卒業後に岡山で就職し、結婚した。セツ子の夫は電器店を経営しているようで生活は豊かだった。3人の子供にも恵まれ、幸せな家庭であった。小さい時にセツ子とよく遊んでいたので、別れていた間にもセツ子は私の夢の中によく出てきていた。現実に再会できた時には本当に嬉しくて、涙が止まらなかった。セツ子も何も話さず私の手を握ったまま一緒に泣いてくれた。

(44)日本語を取り戻す

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 1984年8月に帰国してから、高知市中水道10番にある平屋で生活を始めた。この家は、兄が所有する空き家で、臨時に私たちに貸してくれていた。建物は築40年以上で、冬に風が吹くと、家の中は外と変わらない寒さであった。夜にはネズミが屋根裏で走り回り、暗闇の中で怖くて眠れないこともしばしば。それでも、自分の故郷に帰って来たうれしさで、ひとまず安心していた。住まいの環境や条件などは一時的なものであり、我慢しなきゃと思っていた。

 生活費は、高知市生活福祉課からの援助に頼っていた。家庭の必需品などをすべて賄うには足りず、多くの物は親戚や知人からの援助に頼らざるを得なかった。

 大事なことは、一日も早く日本語を取り戻すことだったが、簡単ではなかった。私の年齢にも関係するが、覚えた単語や言葉をすぐに忘れてしまう。それに中国に残している家族のことも気になって仕方がなかった。日本で暮らす気があっても、言葉の壁が立ちはだかる。乗り越えるには並みの努力では足りない。日本社会に適応できないのではないかと考え、そのせいで語学の勉強に専念することができない、という悪循環であった。

 高知県厚生援護課は、日本語教室を開いてくれた。昼は高知県人権センターの4階、夜は桟橋通りの福祉センターの2カ所で講座を受けた。私たち親子は、月曜から金曜日まで毎日、日本語教室に通った。教室でも思うように言葉を話せないので、焦る気持ちと悔しい気持ちが入り交じり、いつも涙を堪えながら会話の練習をしていた。

 日本語の勉強は、私たちが早く自立できるよう、職業訓練学校へ入学させるのが目的であった。日本社会に少しでも早く慣れるため、私を含む6名の帰国者は、高知県教育委員会教育センターの研究所で3か月間の「中学講習」を受けることになった。

 講師は、各中学校の教員だった。講習科目は、数学、国語、社会そして体育の計4科目。毎朝8時に研究所に到着して、8時半に近くの高知城を上って20分間ジョキング、次に体操、最後は縄跳び。中学生がこなす体育の授業と同じことだった。50歳の私は、初めの頃は大変だったが、毎朝の日課で体力がつき、段々と楽になってきた。研究所での授業を終えて帰宅すると宿題として生活日記を書き、テーマを見つけて作文や感想文を書くことにした。翌日に提出して、先生に赤ペンでテ、ニ、オ、ハの訂正や文書内容の添削をしてもらった。 

 こうして少しずつ日本語を取り戻し、先生との会話を楽しめるようになった。日本語の学習をすればするほど、語学力の重要さが身にしみた。言葉は、人とのコミュニケーション手段であり、生活する上で欠かせない大切な「武器」であることを強く思うようになった。

 その反面、私はいつもあることを思うようになった。それは、もし戦争がなかったら、もし中国に行かなかったら、日本の小中高校で勉強して大学に行けていたら…。きっと今とは違う、もう一人の自分になっていたに違いない。考えるたびに、悔しい気持ちで胸がいっぱいだった。

 

(43)日本の戸籍が復活

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 帰国して2週間がたった頃に、県の段取りで高知市長に挨拶に行くことになった。私たち親子のほかにもう一組の親子がいた。

 市長との面会中、出席していた一人の市議が私に「石川さんは、6か月後に向こうへお帰りになるでしょうか?」と質問した。言葉の意味は理解できたが、答えがすぐには出てこない。日本語能力を回復していない私には、考える時間が必要だった。少し間を置いて、次の言葉が自然に浮かんできた。

「私は、2度と外国へ行きません!」

 力を込めた言葉で答えた。なぜ「帰る?」と聞くのだろう。私は日本に帰ってきているのに、とてもおかしいと思った。市長は私の言葉をどのように受け止めていただろう。

 市長室から出た私を、3人の記者が追いかけてきて「言いたいことをお願いします」とマイクを向けた。私には、戸籍の問題など言いたいことがいっぱいあったが言葉にならなかった。記者の方には「ない、ない」とだけ答えてその場から去ってしまった。

 翌日の新聞には、私たちが高知市長に面会した記事が載っていた。記事には「永住希望もらす」との見出しも付き、私が市議に話した内容が次のように記してあった。

〈話題が帰国期限に及ぶと、石川さんが「私は日本人、ずっと日本にいたい」と永住を希望する一幕もあった〉

 記事を読んだ私は「よく書いてくれた!」と素直に喜んだ。

 

 それから1か月後、法務局から日本戸籍を復活したとの知らせが届いた。戦時死亡宣告で抹消されていた戸籍の復活は、今回の帰国の最も重要な目的だった。帰国してから雲に覆われていたような私の心がようやく晴れた。これで、滞在延長の手続きは不要になった。これからは、本当の日本人として、自由にこの国で暮らすことができる。あれほど幸せに満ちた気持ちは初めてだった。多くの助けてくれた方々に、感謝の気持ちでいっぱいだった。

(42)滞在は最大6カ月

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 日本での滞在期間は3か月だった。延長はできるが、最長で6カ月という決まりだった。私の日本の戸籍は復活していた。それなのに、日本に入国する際は中国のパスポートで手続きしていた。私は外国籍の日本人。言わば“和僑”として扱われていた。

 滞在の延長手続きは、帰国後すぐに必要な書類の準備を始めなければ間に合わない。書類をそろえる作業は保証人の恵姉さんの負担になっていた。姉さんはどのように思っているだろうかと、私は不安で仕方がなかった。忙しい仕事や家事をこなしながら、私のために役所、銀行そして高松市の入国管理局などへ足を運び、延長申請の書類準備に奔走してくれた。

 一時帰国中、ある帰国者からこんな話を聞いた。日本の親族が金銭的な負担などを心配して保証人を引き受けず、残留孤児の身元が判明しても帰国できなかった例が少なくないというのだ。だから私は、日本に帰国したら2度と中国籍のままで中国へ戻らないことを決意していた。

 日本で困ったのは、言葉の壁だった。日本語が話せないと自分の気持ちを相手に伝えることができない。言葉のことで悩み落ち込んでいた時に、県が生活指導人を付けてくれることになった。

 この方は5年前に中国から帰国した残留邦人で、私たち帰国者に日本語を教える先生でもあった。先生は中国語が流暢で、日中両方の言葉を自由に使いこなせた。性格もやさしく、何でも気軽に相談できた。残留孤児問題に対する政策と、帰国者たちの気持ちをよく理解できる方でもあった。私は先生に生活指導をしてもらい、様々なことを助けてもらった。

(41)目に焼き付けた日本の姿

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 私は故郷に戻って来た安心感から、どこへ行っても人目を気にせず、自信を持って行動できるようになり、日本の社会を自分の目で確かめるようになった。

 戦後の廃墟から、たった十数年の間に国が立て直され、工業、農業、交通といった社会インフラの建設は飛躍的な発展を遂げていた。生活に必要な物資に困ることはなく、便利な物もたくさんある。人々がとても礼儀正しく、親切だった。

 国民の生活に豊かさが現れている。個人の収入は上、中、下と別れているが、中国に比べて貧富の差は少なかった。物価が安定していて、暮らしやすい社会環境だった。これは日本人にとって誇りであり、幸せで、素晴らしいことだと感じた。

 帰国時に乗った飛行機が高度を下げはじめた時、機内放送で日本上空にいることが分かった。窓から機外を覗いてみると、青い空と青い海が目に映った。大阪上空に近づくと、地面に走る自動車が見えるようになった。整備された道路を行き来する赤や黒、白い車。その光景は、私が知っている戦前の故郷とは違っていた。それが日本の姿だった。

 日本で見たこと、感じたことを中国にいる家族あての手紙に細かく記した。中国では共産党の政策のもとで、私たちは積極的に国家建設に身を投じていた。思い描いていた理想の共産主義社会は物質に溢れ、貧富の差がなく、人々が平等に暮らせる社会だったが、10年以上努力して、何一つ実現できていなかった。なぜだろう。

 そして日本に帰った私には、帰国した当時の日本が、かつて共産党が目指していた理想の社会になっていると感じられた。子供たちの将来と一家の幸せを考え、夫に日本に来ることを検討してほしいと呼び掛けた。