つないだ命

生きるために、どの時代も闘わなければならなかった。元残留孤児の私の人生をつづります。1984年に帰国し、ふるさとの高知県で暮らしています。

(55)「生きる勇気」が支えてくれた

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 国を相手にした訴訟運動を通じて、私は政治や法律、社会制度についての知識がないことを思い知った。情けなく悔しい気持ちと同時に、1人の人間、そしてその国の国民として生きていくには、社会の仕組み、国民として義務と権利、この義務と権利を守る法律、そして生活を保護する社会制度など知識を身に着ける必要があると痛感したのだった。

 

 そんな悩みを抱える私に、ある友人が高知短期大学で学ぶことを勧めてくれた。

 初めは不安な気持ちだった。私は若くない上、中学校にも行っていない。正直、ついていけないと思っていた。それでも、裁判の悔しさが私の背中を押し勇気づけてくれた。

 

 2008年4月、私は高知短期大学の門をくぐった。

 短期大学の先生方の協力で、中期履修学生となった。学校は、戦争のため中学校も行ってない私を受け入れてくれた。うれしくて、若い自分に戻ったように学校生活が恋しく、たまらなく好きになった。研修旅行や学校の文化祭など、さまざまな活動に積極的に参加し、そして懸命に勉強した。

 

 夢にも思わなかった大学での勉強は、人生の新たな価値観、日本人としての道徳観、そして

物事の是非を判断する力をくれた。今まで疑問に思い、理解できなかったことを、違う角度から見て判断し、分析できるようになり、人生を前向きに考え性格も明るくなった。学生たちは、若い人だけではなかった。定年退職した人など、私のような年配者もいた。仕事で苦労し、人生経験が豊かな方々がいた。そんな環境で、私は人々が互いに助け合う気持ち、人への思いやり、他人の幸せのために努力を惜しまずに行動することなどなど、社会奉仕の考え方も吸収し、2012年3月に卒業した。

 

 今年、私は85才になった。

 短期大学での学校生活は、私にとって生涯忘れられない美しい記憶となった。私のような中国からの帰国者、戦争体験を持つ高齢者を受け入れ、勉強させてくれたことに感謝したい。

 

 私が生きたのは激動の時代だった。

 開拓移民、太平洋戦争、中国国共内戦、中国文化大革命

 帰国後は言葉の壁、家族が受けた差別、訴訟運動。

 数々の苦難が待っていた。

 

 戦争という悪魔は私のすべてを奪い去った。

 それでもたった1つの命をつなぐことができた。

 懸命に命をつなぐことが私の人生だった。

 

 それぞれの節目で、いつも「生きる勇気」が私を支えていた。

 

 中国では「日本人としてここで死ねない」という気持ち。

 日本に帰ってきてからは「人間として生きる権利」を意識した。

 子供たちのためにも「生きる責任」があった。

 人生はいいことばかりではない。

 だから、生きるに勇気が必要だ。

 

 中国残留邦人という悲劇を、2度と繰り返さないように祈りたい。

 

(54)母国を訴える裁判

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 2002年12月20日。東京、神奈川、千葉、埼玉など八都、県、市に住む中国残留孤児637名が原告団結成し、国に対する一人当たり3.300万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。

  このことは高知にも伝わって来た。 高知県生活相談員である渡辺亮介さんを始めるとする帰国者の会から高知県の残留孤児一人ひとりに手紙を出し、裁判運動に参加するようと呼びかけた。私の所にも同じ内容の手紙が届いた。

 はじめは私は「国を訴える」ということが理解できなかった。国のことを母のように思う私は、子供が親を訴えることは理に適わない、恥ずかしいことだと思っていた。私はすぐに返事せずしばらく冷静に考えていた。帰国して15年目になるがこれまでに想像できない苦しみ、悩み、そして将来への不安など抱えていた。43年間も離れた今の日本は、私が想像していた祖国ではなかった。確かに経済発展しているが、昔の日本人のような思いやり、やさしい人々は少なくなったように感じていた。人間関係は複雑で、互いに無関心であり、なぜこうなったのか理解できなかった。

 

 帰国後も、社会に出て働きくことを決心したが、言葉の問題で思うように働くことができなかった。社会復帰は容易なことではなかった。私は1人の人間としてこの世に生まれた。日本という国で生まれた。何も悪いことをしていないのに、なぜこんな目に合わないといけないか? なぜ私たちは捨てられたのか? これらのことを明らかにする必要と考え、裁判に参加することに決めた。

 

  裁判の目的

一、    人間として、人間らしく生きる権利を認めること

二、    残留邦人を長期に外国に放置したことについて謝罪すること

三、    現行の生活保護制度ではなく、新しい支援制度(老後生活の保障)を確立すること

 

 07年1月に東京地裁の判決が出た。

 結果は原告側の全面敗訴。

 その年の1月31日、安倍晋三首相は「中国残留孤児」原告側の代表らと面会し、「法律的な問題や裁判とは別に、新たな対応を考える」と述べ、帰国残留孤児、邦人の置かれた苦しい状況に、政治的判断で支援の手を差し伸べる決意し、支援策を約束した。

 その支援策の主な内容は、次の内容であった。

 

1、    支援対象は、中国残留邦人(残留孤児、残留婦人)全員とする。

2、    老齢基礎年金の満額(6万6千円)を支給する。帰国後に納めた保険料は返還する。低収入の人には、生活費最大8万円を支給する。また、配偶者には4万円程度を付加する。

3、    必要な住宅費、医療費、介護費を支給する。

4、    収入認定制度を適用する。ただし、勤労収入やその他の収入の3割を除外する。

5、    養父母の見舞い、墓参りの渡航費にかかわる収入は、認定を除外する。

6、    預貯金は保有することができる。資産価値500万未満の不動産は保有することができる。

7、    残留邦人が死亡した場合、配偶者があるときは、引き続き給付金を継続する。

8、    中国残留邦人に理解が深く、中国語が話せる「支援、相談員」を配置し、支給手続き等に当たらせる。

9、    可能な限り行政介入を減らす。収入申告書の提出は原則年1回とする。

10、  生計を別にする2世・3世に対しては、原則、扶養照合をしない。同居していることを理由に給付金が受け取れないことがないようにする。

11、  原告に訴訟費用(2億数千万)を負担させない。

 

 裁判は敗訴の形に終わったが、私たちを支援する国民世論が国を動かして新しい支援制度を成立させることができた。自らの手で勝ち取った成果だった。この支援策と引き換えに、国家賠償訴訟の終結に妥協する結果となった。

(53)国に見捨てられ孤児になった

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 帰国後の私は、高知県の歴史資料館や高知市民図書館に通った。

 日本はどのように戦争に負けたのか。私たちは何故満州へ行ったのか。そして、なぜこれほど長い年月、異国の地で放置されたのかが知りたかった。

 中国残留邦人の悲劇の経緯をたどってみたい。

 

 1932年3月、清朝最後の皇帝だった溥儀をたてて、関東軍満州国を作り上げた。9月に日本政府は一方的に満州国を承認。支配体制の確立、軍事力の強化を目的として満州への移民を開始し、終戦直前までに重要な国策として多くの開拓民を満州へ送り出し、ソ連の国境に近い北部、北東部に入植民として住ませたのであった。

 

 開拓民の生命、財産を守るべき役割であった関東軍は43年後半から、戦線拡大や戦局の悪化に伴い、軍隊の半分を他所に転用され、満州国を守る軍事力は著しく弱体化した。ソ連軍の侵攻に抵抗する戦力を保持していない状況であった。45年、ソ連は一方的に日ソ不可侵条約を破り満州への侵攻を開始した。政府は、朝鮮半島およびその周辺地域を防衛地域として決定し、持久戦を持ち込むため満州多くの地域が戦場と化した。多くの開拓民は関東軍の作戦に犠牲となった。ソ連軍は破竹の勢いて関東軍を打ち破り、開拓民が住む地域で殺戮、略奪などを繰り返した。多くの開拓民の生命、財産が危険な状態に晒される状況であった。

 

 このような状況にもかかわらず、政府は救援措置を講じず、事態を静観した。関東軍は事前にソ連侵攻の情報を隠し、開拓民を避難させる措置も取らなかった。45年7月頃には、軍人を補強するため、開拓民の青年、壮年男子全員が関東軍によって徴兵され、開拓村に残れたのは、老人、女性そして子供たちのみであった。

 

 こうして中国東方部にある開拓村は、全く無防備な状態でソ連軍の侵攻に晒された。極度の混乱の中で開拓民は難民所に逃げ込み、飢え、寒さそして疫病によって多くの開拓民は命を落としていた。生き残るため、多くの子供たちは親、兄弟、姉妹と死別し自分の意思でなく中国人に引き取られた。後の集団引き揚げ時にも、自力で引き揚げ船に乗ることもできず、大人たちと一緒に帰還することができずに帰国の手段が閉ざされた。

 

 58年12月、日本政府は未帰還者に関する特別調査を実施、当時は、中国と国交がないため、日本赤十字会を経由して戦時中に中国や朝鮮に渡った未帰還邦人について調べた。その結果は、22187人の日本人が中国に残っていることが判明。当時の政府が取った対応は「未帰還者に関する特別措置法」だった。これにより、一部の未帰還者に対して戦時死亡宣告がなされた。残留孤児(13歳未満)のすべてが対象者とされ、1万2千人以上の子どもたちが、籍から抹消された。

 

 72年に日中共同声明が中国北京で発表され、日中国交正常化となった。民間レベルで肉親捜しが始まり、その9年後の80年に日本政府はようやく残留邦人帰国を受け入れるようなった。国籍が抹消された残留邦人は、入国管理法上では外国人扱いであった。そのため、帰国するには身元保証人が必要であり、その身元保証人は日本にいる親族に限るとのことで、身元が判明された残留邦人は日本にいる親族の同意がなければ、帰国することができない実情があった。このような状況下において政府は野党の圧力から84年に入国管理法を変え、身元保証人の代替えを認めることになった。中国に取り残され、何十年も過ぎてようやく帰国を果たした大切な日本国民に対して、なぜもっと心をこもった対応できなかったのか? 私は残念で仕方がなかった。

 

 このようにして遅すぎる帰国を果たした残留孤児たちに対し、自立支援プログラムの内容は貧弱なものだった。4カ月間、日本語勉強をした後に、社会に送って自立をさせるのだが、職業の準備期間や中国での職歴に見合う仕事を見つけてあげるなど、完全に自立させるまでのサポートはなかった。

 多くの帰国者は言葉が不十分のまま就職したため、職場で軽蔑され、いじめにあうことはしばしばだった。悩みを相談したくでも言葉ができないことから話せる相手もいない。心身ともに苦しい生活を強いられる状況であった。そして、働けない帰国者は、生活保護をうけることになるが、生活水準は最も低く、とても厳しい内容であった。

 

 私たちは、何のために祖国を離れ、戦争相手の中国に行ったのか? 

 戦争終焉時になぜ保護、避難してくれなかったのでしょうか?

 私たちが中国に取り残された事実が分かった後の政府の応は、事実上の切り捨て、見捨てであった。国交が正常化してからの対応も積極的なものではなかった。未帰還者の帰国に妨げとなる入国管理法案の改正に時間がかかったことも社会復帰できなかった主な原因だった。帰国後の自立支援プログラム内容は貧しいものであった。

 

 こうした不信感、様々の疑問、そして老後の不安から、元残留孤児たちは、遂に行動を起こすことになった。

(52)玉恵さんは娘に会いに行かなかった

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 中国の難民避難所で、私に中国人の子どもになるように勧め、命を救ってくれた吉良玉恵さん。

 私は、玉恵おばさんが中国に残した娘さん捜しを始めた。おばさんから聞いた当時の話を手紙にまとめ、長春市公安局外事課に送ると、まもなく返ってきた手紙には、おばさんが残した娘さんらしい人物を見つけたと書かれていた。その方が勤める会社、住所そして中国の名前も書いてあった。私は、このことをおばさんに伝えた。おばさんはとまどいながら、「娘かどうか、どうやって確かめたらいいの?」と聞き返してきた。

 

 ちょうどのその頃、私は中国に残していた夫と次男を迎えに行く予定があった。おばさんには、「代わりに会ってきます。娘さんかどうかを確かめてみます」と伝えた。中国に戻った私は、長春市公安局の外事課に教えてもらったおばさんの娘さんらしい人物と連絡を取り、数日後に長春の私の家で会う約束をした。

 

 面会の日、私は彼女を一目見て自分の目を疑った。彼女は父親にそっくりだったのだ。平安開拓団にいたとき、彼女の家は私の近所であったため、彼女の父親のことをよく覚えていた。簡単に挨拶した後、面談が始まった。彼女は、自分が日本人であることを覚えていると述べてくれた。身分は長春市公安局に登録されている。そして公安局からは、彼女が来年2月に中国残留日本人の肉親捜しとして日本へ行く予定だと教えられた。彼女の話を聞き終えた私は、おばさんの娘さんに間違いないと確信した。

 

 「安心してください、貴女のことを日本側の親族、そして県行政にお伝えいたします。必ず母親を見つけ出すことができます」

 

  日本に帰国した私は、おばさんに娘さんに会ったこと、話したことなどをすべて報告した。喜んくれたおばさんを見て、私は自分の事のようにうれしかった。ようやくおばさんに恩返しできたと感じたからだ。そして、この件を高知県庁の厚生援護課の担当責任者にも報告し、役割を果たせたことに安堵した。

 

 11986年2月、おばさんの娘さんは肉親捜しのため来日し、東京青年センターに約2週間に滞在した。来日した中国残留日本人のことがテレビ、新聞で連日のように報道されていた。娘さんの写真や体の特徴なども詳しく放送されていた。

 

 ところが…。

 1か月後に娘さんから届いた手紙で、おばさんが娘さんに会いに行かなかったことが分かった。

 娘さんは、すがるような気持ちで母親が会いに来ることを期待していた。しかし、帰国の最終日まで母親は姿を見せなかった。娘さんは、母親に会えると信じ、お金を工面して準備していたお土産も渡すことができないまま中国に帰ったという。文面には、悲しいしい気持ちが表れていた。絶望で体調を崩して寝込んでいたことも書かれていた。

 

 難民所で私を中国人に預けたのは生き残るため。仕方がなかった。別れ際に、後で迎えに来ると私に約束してくれた。私は40年間待ち続けていた。そして、今度こそ母親に会えると思っていた。でも最後の最後まで母親の姿はなかった。なぜなの? そんなに私のことが嫌いなの?

 

 娘さんがあまりに気の毒だった。

 何としても娘さんを帰国させないといけない。私はそう心に決めた。

 おばさんに自宅に来てもらい、娘さんの手紙を見せながら「なぜ会いに行ってやれなかったの?」と尋ねた。おばさんは寂しそうに下を向くばかりだった。

 「お金がない…」

 私はおばさんに言った。

 「この手紙を翻訳して県庁の厚生援護課に見せましょう。もし娘さんを思う気持ちがあれば、夏に予定されている平安開拓団の訪中団に同行しませんか。長春へ行きます。言葉が分かる同行者もいます。おばさん。この機会を逃さないようにしてください」

 

 

 その年の8月。吉良玉恵さんは平安開拓訪中団と一緒に長春へ行き、娘さんと再会した。

 長春駅での別れ際に親子であることを認め、抱き合って泣いた。帰国したおばさんは、娘さんの戸籍復活手続きを始めた。

 

 ある日、おばさんは県厚生援護課の班長さんと一緒に家庭裁判所に呼ばれ、質問を受けた。その後、班長さんかが私に電話をかけてきた。

 「石川さん、困った。(玉恵さんが)やめると言い出した」

 私は「それは、あの人のことだから、仕方がない」と答えた。

 班長さんは「裁判官はあなたの意見を聞きたいと言うので、来てくれないか?」という。

 県からの依頼なので、私は裁判所に行くことにした。

 裁判官から「石川さんは、終戦時に何歳でしたか」と質問された。そして「彼女」が、玉恵おばさんの娘である理由を聞かれた。

 「私たちは、満州で同じ開拓団の村で暮らしていました。家は近所で、私はおばさん夫婦のことをよく覚えていた。ただし、娘さんと一緒に遊んだことはありません」

 そして、おばさんが娘を中国人に預けた場所は、私が住んでいたところと離れていないこと、長春で娘さんと会った際、「彼女は父親の顔にそっくりで、歩き方まで似ていた」ことなどを裁判官に伝えた。

 その後、班長からお礼の電話があり、「娘さんの戸籍復活が進んでいる」と状況を教えてくれた。

 

 自分の子供だと分かっても、認めない、認められない―。そういう親が実際に存在した。普段であれば理解できない、信じられないような不幸が、身近に起きたのが戦争だった。

(51)中国人に預け、命を救ってくれた玉恵さん

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 私自身は、多くの方に助けられ、肉親捜しを始めてから短期間で帰国することができた。

 但し、中国には未だに多くの「未帰国者」が残っている。

 

 1984年、私が日本に帰国して間もなく、恵姉さんが一冊の本を見せてくれた。高知県の福留福太郎さんたちが書いた「満州開拓団史」。私たち開拓団員の名簿が載っていた。その中に私は、吉良玉恵さん一家の名前を見つけた。玉恵さんは敗戦時、難民所で、私を中国人に預けてくれた人だ。私はそのおかげで生き延び、日本に帰ってくることができた。本の記録では、玉恵さんには子どもが1人いた。私はもしも中国に残っているならば、長春にいるのではないかと思った。

 

 あの時、玉恵さんが中国人の子どもになるよう勧めてくれなかったら、私は死んでいたかもしれない。そして、今日になって故郷の土を踏むこともできなかっただろう。帰国後、何人かに玉恵さんのことをたずねたが、消息は分からなかった。

 

 ある日、私と同じ開拓団にいた松本さんと言う人が高知に来た。もしかして、松本さんが知っているかもしれないと思い、玉恵さんのことをたずねてみた。松本さんは「石川さんが帰国の際に、あなたを迎えにあの方は皆と一緒に高知空港にいましたよ。皆の集合写真にも写ったはず」と言う。私は集合写真を出して松本さんに確認をお願いした。大勢の人々の後ろに年配の女性がいた。よく見ると私が覚えているあのおばさんの面影があった。そして疑問が沸いてきた。空港まで来てくれたのになぜ私に声をかけてくれなかったの? 何か不都合なことでも?

 

  玉恵おばさんに会えたのは、年末に県が主催する帰国者の会の会場だった。私はあらかじめ参加者名簿を確認し、会場で玉恵さんを見つけて話しかけた。

 「私のことを覚えていらっしゃいますか?」

 「千代さん、ご無沙汰です。先日は、あなたが帰って来た時に空港まで行きましたが、人が多くって、話す機会がなかったので、声をかけずに帰りました。ごめんなさいね。」

 「うん、こちらこそ失礼しました。長春の難民所では、助けてくれてありがとうございました。こうして、日本に帰って来られたのは、あなた様のおかげです。ありがとうございました」

 私は深く頭を下げた。そしてこう続けた。

 「開拓団史の名簿を見ました。おばさんの娘さんが中国に残されているようですが、本当でしょうか?」

 玉恵さんは目線をそらして「仕方がなかった。千代さんが知っているように難民所には食べ物がなく、あのままでは、あの子は飢え死にするほかありませんでした。千代さんが中国人に連れられて行った後、あの子を別の中国人にあげました」と言いながら頭を下げた。

 「娘さんを探しませんか?」と私は尋ねた。

 「探したい……」。玉恵さんはさらに何かを言おうとしたが、言わなかった。

 「おばさん。私、お手伝いいたします。中国の警察に知り合いがいますので、情報の確認を頼んでみます」

 私は玉恵さんの手を握って約束した。

(50)子どもたちのこと

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 私には3人の子供がいた。一番上が女の子で、そのしたに2人の男の子だ。

 長男は20歳の時に私が一時帰国の際、一緒に日本へ帰って来た。長男の利男(としお)は、私と一緒に県の日本語教室に毎日通い言葉の勉強に励んだ。辞書を肌身離さずに歩き回った。県の特別な配慮で1985年4月に高知商高校へ進学することになった。商業学校は、私たちの住まいから遠く離れていた。長男は夏の猛暑、冬の寒い風に耐え、雨の日も風の日も、一日も休むことなく自転車で通い、皆勤賞で卒業した。東京にある化粧品会社に就職し、今は中国の天津にある工場で生産管理の仕事をしている。

 次男の健新(けんしん)は、私たちより一年遅れて1985年に日本へ帰って来た。私が受講していた教育センターの研究所で日本語を約6か月学び、翌年の4月に高知工業高校に入学。1989年に電気科を卒業して東京にある大手電機メーカーに就職した。次男は日本に来た日数が浅いことから、言葉が十分でないまま会社に入り様々な困難があったと思うが、何とか乗り越えて、今は社内で中国事業関連の仕事を担っている。

 最後に日本に帰って来たのは、娘の小波(こなみ)一家3人だった。2歳の孫は、新しい環境に慣れないため、泣くことが多かった。娘は日本語の勉強をしながらの育児で大変だった。娘婿は日本に来てから昼間はバイト、夜は高知工業の定時制学校に通った。2年間の勉強を終えて卒業し、高知市内の印刷会社に就職した。まじめで懸命に頑張っていたので、周囲から頼られる存在になっていた。親元を離れ、言葉の壁を乗り越え、大変な苦労をしていたが、愚痴など一言も口にせず、夫婦は協力して孫を立派に育てた。そして、孫の洋一は高知医科大学を卒業して、今は県立病院で医師として勤務している。

 3人の子供は私の宝であった。言葉という壁を乗り越え、日本社会に適応して、今は仕事を通じて日中両国の交流に貢献にできていることを誇りに思う。そして、安心した。

(49)介護の仕事に喜び

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 日本に帰国した私が最後に就いた仕事は介護だった。

 私の叔母が病院の「付添い」の仕事をやっていたので、私にもその仕事を紹介してくれた。大変だが、やりがいのある仕事だった。人を喜ばすことができ、収入はそれまでより多かった。将来に不安を抱いていた私は、少しでも多く貯金したかった。実際に始めてみると、実に大変な仕事だと分かった。

 面倒を見ている患者は、病の苦痛のため夜も眠れず、何回もベッドから起きてトイレに行く必要があった。私は体が小さく一人で患者を動かすのは難しかった。初めは作業に時間がかかり、食事を取る暇がないこともあった。隣の病室で働いている付添さんが、患者を世話するコツを少し教えてくれた。この方は同時に2人を世話していた。皆が頑張っている姿に感心すると同時に、自分も頑張ればできるはずだ、とやる気が湧いてきた。

患者さんとコミュニケーション

 

 介護の仕事は、患者とのコミュニケーションがとても重要だ。患者は病から心身ともに弱っているため、日々、世話してくれる付添人が唯一頼れる存在である。最初に担当した患者さんは、なかなか心を開いてくれなかったので、世話することが難しく感じた。言葉でのコミュニケーションが難しい私は、行動で示すことにした。

 患者たちは自由に動けず、長いベッド生活で皮膚に褥瘡や湿疹ができやすい体質になっている。私は毎日の朝晩2回、タオルで患者の体を拭くことにした。風呂に入れない患者は、清潔を保つにはタオルで体を拭いてもらうほかない。体を拭いた後に「石川さん、いつもありがとう! とっても気持ちが良かったです」。普段はほとんど口をきいてくれなかった患者も、お礼を言ってくれるようになった。こうして徐々に私に心を開いてくれ、会話も増えていった。

 患者の体を起こすことや抱えながらトイレに行くことは、体の小さい私にとっては大変だったが、不思議なことに楽にできるようになった。これは私がコツを掴んだからではなく、患者さんが心を開き協力してくれるようになったためだと感じた。私は会話を通じて徐々に患者の習慣や、したいこと、食べたい物などを知るようになった。自分が患者だったらどう思うかを想像することで、患者の気持ちが理解できるようになっていった。

 ある時、病院の医師や看護士に、患者さんを車いすで外へ散歩に連れ出したいと相談した。私の熱意が通じ、患者の体調に合わせ、時間と範囲を限定して外出を許可してくれた。こうして患者と散歩に出るようになった。患者は、私の手を握って「石川さん、ありがとう! 外の空気を吸えたのはあなたのお蔭です。ありがとう」と喜んでくれた。

 こうして、日に日に患者の状態が良くなってきたことから、家族からは「石川さんにお願いして良かった。安心して任すことができたわ! これからもお願いしますね」と、褒めて頂いた。

 日本に来てから、様々な方からの援助を受けて懸命に頑張ってきた。できるだけ人に迷惑をかけずに自立し、そして人の役に立ちたいとの思いがあった。幼い時に日本を離れ、戦後の日本社会のことをほとんど知らない私は、訓練学校を卒業してからいくつかの仕事に就いたが、仕事と対人関係への戸惑い、生活と将来への不安などで気持ちが晴れることがなかった。そんな中で介護の仕事に就き、患者との信頼関係ができて家族から頼られる立場になったことに、心から喜びを感じた。やればできる、と仕事に自信ができた。

介護の資格も取得

 

 私は家事をこなすため、月に3日間の休みをとっていた。休み前の帰り際は、患者が私の手を握って涙ぐみ「早く戻って来てね! お願いします」と言ってくれた。日本に戻って、初めて人の役に立つようになった。それが何よりも嬉しくて、思わず涙が出た。頭を上下に何回も振って「おばあちゃん、待っててね。すぐに帰ってくるからね」と返事した。

 こうして私は介護の仕事を1年間続けた。その間、4人を担当した。いずれも良い関係を築くことができた。私は、もっと介護の知識を勉強したいと思うようになった。そのきっかけは患者の一言だった。

 「石川さんは介護の仕事に合っている。介護士の資格を取る気持ちはないの?」

 介護も資格が必要でしょうか、と私が聞くと「必要ですよ。日本は長寿国であり、これから高齢化社会になるので、より多くの介護士が必要になる。資格を持つと老人ホームなど多くの医療機関で働くことができるの」と教えてくれた。

 この話を聞いた私は、知識を持って仕事に就くことの重要性を痛感した。仕事が見つけやすいばかりでなく、科学的、合理的に介護する知識を身に着けることは何より重要だと思い、必要な国家試験に向け仕事をしながら猛勉強を始めた。

 約1年間の勉強を経て、筆記試験そして技能試験に合格して介護資格を取得できた。これからはもっと患者を喜ばすことができる、そして仕事はもっと楽しくできるとの思いだった。健康ならば、70歳まで仕事をすると決めた。